さとこ

(池上彰の新聞ななめ読み)バイデン大統領就任演説 訳し方で違った印象に

アメリカのジョー・バイデン大統領の就任式は、時差のため日本国内では深夜の中継となりました。実際にどんな演説をしたか知りたい人は、新聞各紙1月22日付朝刊に掲載された日本語訳をじっくり読んだのではないでしょうか。

朝日新聞や日経新聞は、英文と日本語を対訳の形で同時に掲載しました。読売新聞は、本紙は日本語訳だけで、英文は読売の英字紙「ジャパン・ニューズ」に掲載しました。就任演説は格調が高く、日本語訳だけを読んでいると、「あれ、この部分はどんな英文なのだろう」と知りたくなる人もいるはずですから、ここは対訳にしてほしかったところです。

新聞各紙を読み比べると、バイデン大統領の言葉を「です、ます」調で訳すか、「である」調で訳すかによって、イメージが違ってくることがわかります。たとえば朝日新聞。冒頭に近い部分で、こう書きます。

〈今日、私たちは大統領候補者の勝利ではなく、大義の、民主主義の大義の勝利を祝福します。人々の意思は届き、そして聞き入れられたのです。民主主義は大切であることを改めて学びました。民主主義は壊れやすいものです。皆様、今この時、民主主義は勝利したのです〉

一方、読売はこう訳しました。

〈私たちが今日祝うのは候補者の勝利ではなく、大義、すなわち民主主義の大義だ。国民の意思が聞き入れられ、考慮されたのだ。民主主義がかけがえのないものであることを、私たちは新たに学んだ。民主主義とは、もろいものだ。そして皆さん、民主主義は今この時をもって、勝利した〉

では、日経はどうか。

〈我々はきょう、一候補者の勝利ではなく、民主主義の大義の勝利を祝っている。人々の意思が響きわたり、人々の意思が聞き入れられた。我々は改めて民主主義の貴重さを認識した。民主主義はもろいものだ。しかし今この瞬間、民主主義は勝利を収めた〉

あなたはどの訳文が好みですか。バイデン大統領の人柄をほうふつとさせるのは、朝日の訳文でしょう。優しい口調になっているからです。でも、なんだか校長先生が生徒に話しているようなイメージもあります。

読売は「である」調を採用したことで格調高くなりましたが、「考慮されたのだ」という表現はこなれていない印象です。日経は大胆な意訳です。「人々の意思が響きわたり」と訳すとは、ちょっとびっくりです。

アメリカ大統領は代々キリスト教徒ですが、バイデン氏はケネディ以来のカトリック教徒です。それらしい箇所があります。日経新聞はこう訳しました。

〈何世紀も前、聖アウグスティヌスは人々は愛の共通の目的で定義づけられると書いた〉

これでは、なぜ聖アウグスティヌスを引用したのかわかりません。これに対して朝日はこう訳します。

〈何世紀も前、私の教会の聖者、聖アウグスティヌスはこう記しました。民衆とは、愛する共通の対象によって定義される集団であると〉

この方がいいですが、さらに丁寧なのが読売です。

〈何世紀も昔、私が属する教会の聖人である聖アウグスティヌスは、人々は愛を注ぐ共通の対象によって特徴付けられると説いた〉

「私の教会」より「私が属する教会」の方が、わかりやすいですね。

アメリカはキリスト教が盛んな国だと実感するのは、大統領がほぼ必ず聖書の一節を引用するからです。朝日訳です。

〈聖書にあるように、嘆き悲しむことが一晩続くかもしれませんが、次の朝になれば喜びが来ます〉

ところが、読売訳はこうなっています。〈夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある〉

これは聖書協会共同訳『旧約聖書』詩編30章からの引用です。朝日も別稿で紹介していますが、やはり演説の日本語訳に聖書の言葉をそのまま盛り込みたいところ。演説のニュアンスが素直に伝わります。

それにしても、日本の総理の演説との格調の差は、どうにかならないものでしょうか。


1月29日朝日新闻社




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